2002年4月30日
Once-Familiar Rooms, Again…
京都大学の学生街「百万遍」に古書店〈遅日草舎〉が開店したのは今年2月のことでした。以来、週に一度は立ち寄るように なりました。
ある日、ショーケースの中が模様替えされ、多数に及ぶ〈L'AGE D'OR〉のシリーズなどとともに、薄型で瀟洒な美装本が4、 5冊並んでいました。それはアメリカのシュルレアリスト、ティモシー・バウムのプライベート・プレス NADADA EDITIONS から 刊行されたシリーズでした。17年前にライムハウスから刊行された『シュルレアリストの対話'34』の原書もこのなかの一冊で す。この日、私は『Once-Familiar Rooms』と題されたティモシー・バウム自身の詩篇を買い求めました。そして、この散文詩 を読んで久方ぶりに懐かしい感動を覚えたのです。

『Once-Familiar Rooms』、訳せば「かつて親しんだ部屋」、あるいは「いつか君がいた場所」「いつか僕がいた場所」とでも いうのでしょうか、わずか10数ページの本ですが、一読して、ああ、これはブルトンの『超現実主義宣言』の冒頭だ、と感じ ました。

『超現実主義宣言』の素晴らしい冒頭部分、それは無垢で奔放な少年時代という輝かしい黄金の時を称揚し、〈二十歳頃 には、おおむね、光明のない運命の手に人間を委ねる結果に落ち着く。………生きてゆく理由がひとつ残らず次第に失せ 去るのを感じ取り、ときたま、自分を取り戻そうとあがいてみたところで、成功はおぼつかないだろう。もはや彼は仮借ない実 利的要求に身も心も所属し、それから目をそらすことは許されないからだ。〉と嘆じたもので、ティモシー・バウムは、かつての 黄金時代を「かつて親しんだ部屋」になぞらえ、その部屋が現実的要求に苛まれることによって、どんどん遠のいていくさま を、切なく歌いあげていました。それはノスタルジックな感動というのでしょうか、私が『超現実主義宣言』をはじめて読んだ ときの感動とほぼ同種の、〈切ない〉ものでした。

かつてアンドレ・ブルトンは、詩を捨てたアフリカ時代のランボーを称揚しました。食うや食わずの乞食をしていたジェルマン・ ヌーボーの生き方を称揚しました。シュルレアリスムは理屈でもなく、ましてや文筆家のものでもない、地球上のあらゆる場所 に棲む、どうしても〈社会〉になじめぬ人間の魂の奥底に巣喰う、直接的な〈生〉への郷愁と鼓動、そして理不尽な現実的〈生〉 への鬱屈、怒り、哀しみ……つまりそれはティモシー・バウムの詩篇や『超現実主義宣言』の冒頭にたゆたう〈切なさ〉なので した。

どうしてもなじめぬ〈社会〉、理不尽な〈生〉に対する、やむにやまれぬ〈あがき〉とでもいいましょうか、文芸誌『るさんちまん』 第3号発刊以来、長らく休眠しておりましたが、このたび、その〈切なさ〉を集大成したアンドレ・ブルトン美文集『至高の愛』を 刊行することにより、イレーヌの再出発を期したいと決意を新たにする次第です。今後とも精一杯、珍しいもの、良いものを紹 介してまいりたいと存じますので、読者の皆様の御支援をよろしくお願いしたいと思います。
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