2008年11月25日
憂国忌に想ふ
毎年、11月25日になると、三島由紀夫の自決を思い出します。思い出すといっても、当時、私は小学校に入ったばかりで、何ら記憶にないわけですが、長じて、三島の自決に関する夥しい研究本や評論に目を通しているうちに、1970年当日の映像がありありと浮かんでくるのが不思議です。
三島由紀夫
おそらく一人の人間の死に関して、これほど夥しい本が出版されることは前代未聞でしょう。しかしながら、量多ければ、それだけ粗悪品も多く、三島の自決を巡る推論も、幾千とある状況です。
特に目立つのが、晩年の三島が意識的に装った政治的側面、つまり、自衛隊や楯の会という、彼がかぶった仮面の〈外側〉に振り回された推論です。曰く、二・二六事件の首謀者、磯部浅一に共鳴しなければ三島は自決しなかっただろう、曰く、死の一年前に発生した新左翼の暴動に自衛隊が治安出動していれば自決しなかっただろう…等々、晩年の三島が見事にかぶりおおせた外的側面ばかりに視点が置かれ、三島の内側に隠された暗黒面に踏み込んだものは極めて少ないのが現状です。

私はかねがね、三島の自決は、ジョルジュ・バタイユの言うエロティシズムの最大近似値としての死であり、また、『太陽と鉄』における告白どおり、皮膜を貫通する生理的快楽への異常な嗜好(フェティッシュ)、ボードレールの言う死刑囚にして死刑執行人という相対地獄のジレンマ、そしてホモセクシュアルを通じたエロスと大義の融合の問題を抜きにして、三島の自決は語れないと思っています。
(このことは、弊社発行の雑誌『るさんちまん第2号』1985年刊所収「死とエロスの彼方に〜三島由紀夫自決後十五年」に書かれているとおりです。)
三島の晩年の著作、行動を閲すれば、表面的に見れば政治的色彩が濃厚ではありますが、すでに相対地獄に蝕まれ、底無しのニヒリズムにはまり込んでいた彼は、その突破口として、究極の絶対者を仮構するという観念上の操作と舞台装置がどうしても必要でした。例えば二・二六事件の皇道派の将校に共鳴し、天皇に裏切られた姿を自分と重ね合わせていることは、美しき天皇という絶対的概念を構築するための素材の一つを見つけた三島の感動の表明であり、彼はこの絶対性の乏しい日本という風土のなかで、天皇という絶対者を仮構することしか選択できなかったのです。
私は三島の『文化防衛論』が好きですが、彼の言う天皇とは、平安王朝から連綿と続いた恋の歌を詠む「色好みの家」の帝であり、京都を中心とした日本文化の「みやび」を司る絶対的存在としての美しき天皇でした。おそらく三島は、西欧一神教の絶対的存在とは性格を異にした、世界に類を見ない色好みの家の文化的絶対性に「聖なるもの」を見ようとしたのではないでしょうか。
三島は少なくとも死の四年前には、自決を決意していたものと思われますが、決意したあとの彼は、己れの観念上の絶対者を仮構するために涙ぐましいほどの努力を重ねてきました。楯の会、神風連のサムライ、皇道派の将校、聖セバスチャン等々、全ては己れの死のための装飾具であり舞台装置でした。宮家の許嫁との姦通(「春の雪」)の如く、神聖不可侵なもの、「聖なるもの」を構築して一刀両断するという、エロティシズムの最高の成果、生の最高揚の瞬間に、三島は全てを賭けたのです。なぜなら、三島のニヒリズムはすでに死の瞬間以外に、何ものをも信ずることのできない地点にまで行く尽くしていたからです。
ただ、時代がここまで品下ってきた昨今の現状を目の当たりにするにつけ、三島の時代を見る目の確かさには瞠目を禁じ得ません。40年近く前の1970年7月、死の3ヶ月前に書いた彼の有名な言葉があります。 「希望をつなぐことはできない。…日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思ってゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってゐるのである。」  彼の死は、ふやけ切った時代に対する諫死であり呪詛でもありました。そして今もなお、彼の呪詛は、世の片隅に棲む、心ある人々の胸の中で生き続けています。
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